LOGIN夜風が、火照った頬にじんわりと沁みた。
商会を飛び出してから、まだそんなに時間は経っていない。
なのにもう、さっきまでいた場所が妙に遠く感じる。
「ほら、突っ立ってないで乗りな」
通りの端へ停められていた大型馬車。その御者席から、女がひらひらと手を振った。
ヴェルカだ。
長い赤髪を無造作に流し、片手には酒瓶。完全に出来上がった顔で笑っている。
……本当にこの人について行って大丈夫なんだろうか。
俺は思わず、隣のミリスを見る。
ミリスも無表情のままヴェルカを見上げていた。
「危険人物」
「だよな……」
即答だった。
だがヴェルカはケラケラ笑う。
「失礼だねぇ。これでも評判の良い行商人だよ、私は」
「酒臭い時点で説得力ゼロなんだけど……」
「酒は商売の潤滑油さ」
「潤滑しすぎだろ」
ツッコみながら馬車へ近づく。
その瞬間。
「うわっ……」
思わず声が漏れた。
荷台がとんでもないことになっていた。
積まれているのは木箱だけじゃない。
鍋。フライパン。酒樽。干し肉。布袋。工具。ロープ。ランタン。剣。槍。見たこともない置物。よく分からない骨。なぜか巨大な魚の干物まである。
統一感が皆無だった。
「……ゴミ捨て場?」
「商売道具だよ」
ヴェルカが不満そうに眉を寄せる。
「行商人ってのはね、お客が欲しがるなら何でも売るもんなの」
「いや限度あるだろ……その魚いる?」
「南方じゃ高級品だぜ?」
「マジで?」
思わず魚を見る。
《塩漬け巨大魚:480G》
高っ。
こんなのまでちゃんと価値あるのかよ……。
俺が若干引いていると、近くで別の馬車を整備していた男がこちらへ顔を向けた。
「あれ、ヴェルカじゃねぇか」
日に焼けた中年の御者だった。
ヴェルカを見るなり、呆れたように笑う。
「なんだよ。また弟子増やしたのか?」
「拾った」
「犬猫みたいに言うな」
即座にツッコむ。
御者は腹を抱えて笑った。
「ははっ、今回は何日持つかねぇ」
「失礼だなぁ。今回は長持ちするよ」
「前の奴、三日で逃げただろ」
「繊細だったんだよ」
「酒瓶投げつけたって聞いたぞ」
「避けなかったアイツが悪い」
「最低だこの人!」
思わず叫ぶと、御者は「頑張れよ坊主」と肩を叩いてきた。
全然励まされてる気がしない。
俺は嫌な汗を流しながらヴェルカを見る。
「……本当に大丈夫なんだよな?」
「大丈夫大丈夫」
ヴェルカは酒瓶を揺らしながら笑った。
「私は“面白い”と思ったモノしか拾わない主義でね」
その言葉だけ、妙に真っ直ぐだった。
一瞬だけ。本当に一瞬だけだが。
酔っ払いの目には見えなかった。
「……ま、立ち話してても仕方ない。行くよ」
ヴェルカが手綱を鳴らす。
馬がゆっくり動き出した。
石畳を抜け、見慣れた街並みが遠ざかっていく。
俺は荷台へ腰を下ろしながら、小さく息を吐いた。
――街から出るのなんて、何年ぶりだろう。
そして。
長年暮らした街を飛び出してから、三日後。
俺たちは次の街へ辿り着いていた。
鉱山都市ミスラント。
街へ足を踏み入れた瞬間、まず耳へ飛び込んできたのは、金属を打ち鳴らす甲高い音だった。
カン、カン、と絶え間なく響く槌音。
通りには鉱石を積んだ荷車が何台も行き交い、煤まみれの鉱夫たちが怒鳴り声を上げながら行き交っている。
空気もどこか鉄臭い。
「うわ……」
思わず辺りを見回す。
俺が今までいた街とは、空気そのものが違った。
市場には武器、防具、鉱石、工具。
並んでいる商品も全体的に物騒だ。
剣一本にしても、以前居た商会で見たような飾り物じゃない。
本気で“使うため”の道具ばかりだった。
「田舎者丸出しだねぇ」
御者席でヴェルカが笑う。
「うるさいな……」
「ミスラントは鉱山と交易で食ってる街だ。人も物も金も流れが激しい。だからそのぶん、胡散臭い連中も多いんだ」
「胡散臭い人が言うと説得力あるな」
「お、褒めてる?」
「褒めてない」
そんなやり取りをしている間にも、ヴェルカの馬車へ視線が集まっていた。
「おい、ヴェルカだ」
「また来やがったのか……」
「今度は何持ってきた?」
通りの商人たちがざわつく。
しかも妙に反応が極端だった。
歓迎してる奴もいれば、露骨に顔をしかめる奴もいる。
ヴェルカはそんな視線を気にも留めず、酒瓶を片手に笑っていた。
「アハハ! いやあ、人気者はつらいねぇ」
「笑ってる場合かよ……。奥のオッサンとか、殺意剥き出しだぞオイ……」
すると突然。
「おいヴェルカ!」
露店の向こうから、小太りの男が声を張り上げた。
「ちょうどいい! 例の魔導具、買わねぇか⁉」
男の露店には、古びたランタンが置かれていた。
表面には古代文字みたいな紋様が刻まれている。
確かに、一見すると本物っぽい。
「古代遺跡産だ! 魔力反応もある!」
「へぇ?」
ヴェルカが興味深そうに馬車を降りる。
俺も何となく後ろからついていった。
視界に数字が浮かぶ。
《ガラクタのランタン:8G》
……安っ。
いや、絶対インチキだろこれ。
「やめとけって」
俺は小声でヴェルカへ言う。
「どう見ても偽物だ」
だがヴェルカはニヤついたままランタンを持ち上げた。
「ふぅん……」
カン、と軽く叩く。
次の瞬間。
バキッ。
「え?」
ヴェルカが躊躇なくランタンを分解した。
露店の男が固まる。
「ちょっ、おま――!」
そのままヴェルカは内部を覗き込み、小さく笑った。
「やっぱり」
中から、青白く光る鉱石片を摘まみ出す。
視界の数字が切り替わる。
《
「はぁぁ⁉」
思わず叫んだ。
さっきまで8Gだったガラクタの中に、とんでもないモノ入ってるんだけど⁉
露店の男も目を剥いていた。
「な、なんでそんなモン入って――」
「知らなかったのかい?」
ヴェルカがニヤリと笑う。
「こりゃ古代式ランタンじゃなく、“魔導炉の廃材”だ。中に核片が残ってる場合がある」
男の顔色が変わる。
つまりコイツ、本当に知らずに売ってたのか。
「よく覚えときな、クラド」
ふと、周囲の喧噪が一瞬だけ遠くなる。
ヴェルカの赤い瞳が細まった。
「商人ってのはねえ、商品を見るんじゃあない」
核片を弄びながら笑う。
「“価値”を見るんだよ」
その瞬間だけ。酔っ払いのダメ女には見えなかった。
背筋が妙にゾワッとした。
「……かっこつけてる」
隣でミリスがぼそっと呟く。
「ははっ! こういうのはかっこつけてなんぼだぜ、お嬢ちゃん」
ヴェルカは笑いながら、そのまま核片を懐へ放り込んだ。
*** ミスラントの市場は、とにかく騒がしかった。怒鳴り声。値切り交渉。鉱石を運ぶ荷車。
その喧騒のど真ん中を、ヴェルカは酒瓶片手にふらふら歩いていく。
……本当に大丈夫なんだろうか、この人。
「お、塩じゃあねえか」
ヴェルカがふと足を止めた。
露店には麻袋へ詰められた白塩が山積みになっている。
「一袋120Gだよ! 今なら安い!」
店主が声を張り上げる。
俺は反射的に値段を見る。
《岩塩:118G》
ほぼ適正価格だった。
特に問題はない。
だがヴェルカは、塩を指で摘まむと、妙にニヤついた。
「なあオッサン! コレ、全部くれ」
「は?」
思わず変な声が出た。
隣でミリスも、ほんの少しだけ目を丸くしていた。
「……全部?」
珍しく、自分から口を開く。
「そ。全部」
ヴェルカはケラケラ笑った。
「ま、毎度あり!」
店主が慌てて袋をまとめ始める。
「おい待て待て待て! 何でだよ⁉」
俺が止めると、ヴェルカは酒瓶を揺らしながら笑う。
「まあまあ! いいから積みな!」
数十分後。
俺たちは馬車へ大量の塩袋を積み込んでいた。
完全に意味が分からない。
ミリスも黙々と袋を運んでいるが、時々ちらちらヴェルカを見ていた。
多分、俺と同じことを考えている。
この人、絶対ロクでもない。
「……で?」
「ん?」
「説明。なんでこんなに塩を?」
するとヴェルカは酒を一口飲み、平然と言った。
「三日以内に塩が跳ね上がる」
「は?」
ミリスが小さく首を傾げる。
「……値段、普通だった」
「おお! よく見てるねえ」
ヴェルカが笑う。
「そうさ。“今は”普通だ」
「だったら、今買わなくたって――」
「東側の街道、昨日崩れたろ」
「崩れた?」
「ああ。今朝、鉱夫がやたら保存肉まとめ買いしてたんでね」
ヴェルカはニヤニヤ笑いながら指を立てる。
「さて、ここで問題だ」
一本目の指を立てる。
「保存肉には塩が要る」
二本目。
「ミスラントは鉱山都市。保存食需要がデカい」
三本目。
「そこへ街道崩落。暫くは物流が止まる」
ニヤリと笑う。
「ここまで言えば、もう分かるね?」
俺は絶句した。
「……! そうか!」
思わず声が出た。
「保存肉が必要なのに、塩が入ってこなくなるのか!」
「そう」
「だったら皆、今ある塩を買い始める……!」
「アハハ! 正解!」
値段を見たわけじゃない。スキルでもない。
街の空気と、人の流れだけで読んでいる。
「商人ってのは面白いもんでさ」
ヴェルカが肩をすくめる。
「“今の価値”だけ見てる奴から死んでいくんだ」
その直後だった。
「おい! 塩が売り切れてるぞ!」
「ふざけんな! くそっ、こんなことなら買っときゃよかった!」
市場の向こうで怒鳴り声が上がる。
ヴェルカはニヤニヤ笑いながら酒瓶を揺らした。
「ほらな?」
……なんかもう、この人だけ見えてる世界が違う。
市場の喧騒を背にしながら、俺は心の底からそう思った。
「よーし、じゃあ次行くよ」
ヴェルカが酒瓶を揺らしながら歩き出す。
「次?」
「仕事だよ仕事。商人は忙しいんだ」
「昼間から飲んでる奴が言う台詞か?」
「酒は栄養だからねぇ」
「終わってんなこの人……」
ぼやきながら後を追う。
だが、街の中心部を抜けるにつれ、周囲の景色が少しずつ変わっていった。
人通りが減り、建物も古くなる。空気が冷たい。
やがて石畳すら途切れ、荒れた山道へ出る。
嫌な予感がした。
「なあ、どこ行くんだ?」
ヴェルカは鼻歌交じりに前を歩く。
「もう着くよ」
数分後。
俺たちは、それを見上げていた。
山肌へぽっかり開いた巨大な穴。崩れかけた坑道入口。古い封鎖柵。
その周囲だけ、不自然なくらい静かだった。
入口横には、色褪せた警告板が立っている。
【ギルド指定危険区域 ガザルム坑道 危険度B】
「…………」
背筋が冷えた。思わず足が止まる。
ミリスも隣で坑道を見上げていた。
「……ここ、空気が変」
珍しく、はっきり嫌悪感を口にする。
それくらい異様だった。
坑道の奥は真っ暗で、まるで巨大な生き物の口みたいに見える。
「ここ、昔は鉱山だったんだけどねぇ」
ヴェルカが軽い口調で言う。
「十年前に閉鎖されたんだ」
「閉鎖?」
「ああ。魔物が住み着いてね」
サラッと言った。
「帰ってきた奴がほとんどいなかったんだよ」
ほとんど。ゼロじゃあない。
「一人だけ生還した鉱夫がいたんだが、“
「
「鉄を食う魔物。正式名は《グラン・モルド》だったかな」
聞いたこともない。だが、名前だけで嫌な感じがした。
「ギルドが討伐隊を送ったんだが」
「だが?」
「半分しか戻ってこなかったってさ」
ヴェルカは笑った。
けれど、その赤い目だけは笑っていなかった。
「笑い事じゃねぇだろ!」
「アハハ!」
笑って誤魔化された。
いや待て。
危険度Bって。
俺でも分かる。絶対ヤバいやつだ。
少なくとも、今の俺たちが入っていい場所じゃない。
嫌な汗を流しながら聞く。
「なんで、そんな所に来た?」
するとヴェルカは当然みたいに言った。
「
「…………は?」
「坑道の最深部に鉱脈があるんだ。運が良ければ原石が拾える」
五大宝石。金持ちが国ごと競り合う化け物鉱石の一種のはず。
「いやいやいや!」
思わず叫ぶ。
「なんでそんな軽いノリなんだよ‼」
「金になるから?」
「そういう問題じゃねぇ!」
ミリスも小さく坑道を見上げていた。
「……危険」
「だよな。それで、もしそのグラン何とかに遭遇したら……?」
恐る恐る訊ねる。
するとヴェルカは平然と言った。
「まあ、バレた時は頑張って倒すしかないね」
「倒す前提なの⁉」
「逃げるならソレもアリ」
「帰ってこれる気がしないんだけど⁉」
俺は坑道とヴェルカを交互に見る。
「……いや待て」
嫌な予感がした。
「当然、ヴェルカさんも来るんだよな?」
「え?」
ヴェルカがキョトンとした。
「いや、私は行かないけど」
「は???」
意味が分からなかった。
「なんで⁉」
「だって怖いじゃん」
俺は数秒、真顔になった。
……この人、本気で言ってるのか?
弟子を危険地帯へ放り込んどいて、自分は安全圏待機なのか。
「安心しなって。ちゃんと力は貸すからさ」
「その言葉が一番信用ならねぇんだよ!」
生きて帰れたら、一発くらい殴っても許される気がする。
するとヴェルカは、ふと思い出したように荷物を漁り始めた。
そして、
「ほいこれ」
雑にリュックを投げて寄越した。
「……何これ」
「支援物資」
中を開けてみる。
ロープ。
折り畳みシャベル。
干し肉。
ランタン。
フライパン。
果物ナイフ。
あと、何故か魚の干物。
「いや武器ぇ⁉」
「あるじゃないか」
「果物ナイフ一本だろうが!」
ミリスが干物を持ち上げる。
「……これは?」
「非常食」
「いる?」
「多分」
適当すぎる。不安しかない。
「だ、大丈夫なんだろうな……?」
恐る恐る聞くと、ヴェルカは酒瓶を傾けながら笑った。
「大丈夫大丈夫」
「根拠が薄い!」
「死んだら骨は拾って売ってやるから安心しな」
「安心できるか‼」
ケラケラ笑うヴェルカ。
目の前には、帰還者ほぼゼロの魔窟。
まともな武器なし。支援役は酔っ払い。
控えめに言って終わっていた。
――なのに。
ヴェルカは、俺たちが死ぬとは欠片も思っていない顔をしていた。
巨体が大きく揺れ、そのまま石畳へ崩れ落ちた。 ゆっくりと土煙が晴れる。 焦げた胸板。 焼き潰れた右目。 額にはヴェルカの蹴り跡が深々と刻まれていた。 それでも、ベリアルは起き上がろうとはせず、ただ自分の掌を見ていた。『ぐ……。何故、だ……』 低く唸るような声が響く。『何故、我に攻撃が届いた』 その問いは俺たちではなく、自分自身に向けられているようだった。『我に奪えぬ価値はない。我の前では全てが無価値となるはず』 大きな掌――その中央に空いた風穴を見つめ、ゆっくりと握る。 触れたものの価値を奪う掌に、初めて付けられた傷なのだろう。 その姿を見て、ヴェルカが鼻で笑った。「どうやら神様ってのも、案外頭は固ェみたいだな」 神を名乗るには、随分と間抜けな顔だ――そう言わんばかりに肩を竦める。 ミリスが俺とベリアルを見比べる。「結局、どうして攻撃が当たったの?」「私にも、全く見当が付きません」 屋根から降り立ったカグヤが静かに首を振った。「私の符術は、触れられた瞬間に崩壊しました。それなのに、クラド殿の攻撃だけが通った理由は……」「そこなんだ」 俺は二人へ視線を向けながら言った。「考え方が、逆だったんだよ」「逆?」 ミリスが瞬きを繰り返す。「じゃあ逆に聞くが、お前ら、音を殴ったことはあるか?」 その横から、ヴェルカが割って入ってきた。「……え?」「光でもいい。掴んだことは?」 あまりに突飛な問いに、二人は揃って黙り込む。「そんなのできるわけ――」 言いかけたミリスの横で、カグヤが眉を寄せた。「というより、それと今回の戦いに何の関係が……」「ああ、普通なら関係ねえ」 ヴェルカはニヤリと笑う。「けど今回は、その"普通"が答えなんだよ」 俺も頷いた。「俺の能力も、ベリアルの能力も、本質は同じだ」 掌を見つめながら続ける。「触れたものの価値を扱う能力。ただ、俺は価値を変えられて、あいつは奪う。それだけの違いだ」「つまり……同じ条件でしか発動しない?」 カグヤが静かに口にする。「そういうこと」 するとミリスが、まだ納得できない様子で首を傾げた。「でもカグヤの攻撃だって、光みたいなものだったよ?」「いえ……厳密には違います
急ぎ足で競売会会場――オペラ座を出ると、露店の連なった夜市が広がっていた。 ほんの数分前まで笑い声で満ちていたはずの夜市は、もうそこにはない。 果物を抱えた商人は荷車を放り出し、家族連れは悲鳴を上げる子供の手を引いて逃げる。 行き交う人々が我先にと押し合い、倒れた誰かを踏み越えて逃げて行く。 その中心に、夜空を背負うように立つのは、三メートルを超える怪物。 ベリアルは逃げ惑う群衆など眼中にない様子で、一軒の露店を掴み上げた。 次の瞬間、その屋台は砂のように崩れ始めた。 木材も、布も、並べられていた雑貨も。 触れられた全てが色を失い、灰となって夜風へ溶けていく。『脆い』 ベリアルは掌に残った灰を見つめ、退屈そうに呟いた。『価値無き器は、触れるだけで崩れる』 言葉と同時に近くの露店を蹴散らす。 その風圧一つで、周囲のテントが舞い上がり、小さな瓦礫が飛び荒む。「皆さん、下がって!」 《硬》 カグヤが間髪入れずに札を切り、障壁を展開した。 それでも勢いがついた瓦礫は、その障壁すら突き破って襲いかかってくる。『先刻の人の子か。何をしに此処へ来た』「そんなの決まってるだろ! オマエを止めに来たんだ!」「街を壊すなんて、そんなの許さない!」『戯言を。貴様らのような無価値なデク人形に、我は倒せぬ』 ベリアルは俺たちを見下しながら、一歩踏み出す。 地面が大きく揺れ、思わず転びそうになる。『だがこの我に立ち向かう勇気、賞賛に値する。価値なき勇気だがな』「図体だけじゃなく、態度もデカいとはなァ。ハッキリ言って、私はアンタが嫌いだぜ」 ヴェルカは鼻で笑い、スカートの裾を豪快に引き裂いた。 そして先程のお返しと言わんばかりに右脚を踏み出し、ベリアルの顔を睨み上げた。「テメェにも教えてやるよ。人間サマの本気がどれくらい恐ろしいモノかをよォ!」『雑兵ほどよく吠えるものよ。まずは貴様から血祭りに上げてくれる』 巨大な拳が、ゆっくりと持ち上がる。「来るぞ!」 俺が叫ぶより早く、ベリアルの拳が大地に叩き付けられた。 轟音。 |石畳《いし
嫌な汗が背中を伝った。 アルベリオの身体に走った無数の赤い線が、鮮血となって噴き上がる。 噴き出した血飛沫がステージを赤く染め、観客席側から初めて恐怖の悲鳴が上がった。「おいおい、どうなってんだこりゃ?」 ヴェルカは目を丸くして周囲を見渡す。 誰がやったのか、アルベリオを襲撃した犯人を捜しているのだろう。 アルベリオだって、何が起きたか分からず放心している。 無理もない。 けれど俺たちには、それが何者の仕業なのか、薄らと分かりかけていた。 実際に、それを一度味わっているから。 だからこそ、恐怖が背筋をなぞる。「この現象って、まさか」 冷や汗がカグヤの頬を伝う。「なんで? ミリスが見た時、アイツは……」「いや、ミリスを疑うつもりはない。でも、この“能力”は間違いない」 そもそも、俺たちはアルベリオたちを殺すために来たワケじゃあない。 息があればそれで充分。カグヤの貨物を取り返せたらそれで良かった。 しかし、だったら何故――。「……一体これは、何の真似だ?」 アルベリオが、スーツを血に染めながら裏口を睨む。 その視線を追うように、俺たちも後ろを振り返った。「ゼロ……まさか、裏切ると言うのか!」「裏切るなんて酷い言い方は止してくれよ、会長」 裏口の前に立っていた男――ゼロは、指先でナイフを回しながらため息を吐いた。 顔はボコボコ、腕や脚に無数の痣を付けながら、しかし痛覚がないみたいに笑っている。「ぼくはずっと、この瞬間を待っていたんだよ」 言い終えると、ゼロの口が横に裂けた。 そのまま一歩、また一歩と歩み出し、すれ違い様に俺たちを振り返る。 だが、ゼロは俺たちに襲いかかるでもなく、アルベリオの前でしゃがみ込んだ。「ありがとう会長、おかげで予定通りに計画が進むよ」「ゼロ……君は一体、何者なんだ……?」 アルベリオは傷だらけの体を震わせながら、ゆっくりとゼロを見上げた。 するとゼロはにっ、と歯を見せるように唇を開いた。 笑っているのだろう。けれど、口角の筋肉が全く動いていない。「ぼくはゼロだよ。《奈落の楔》のゼロさ」 初めて聞く名だった。 ミリスとカグヤは言わずもがな。アルベリオも同じ表情を浮かべた。 誰一人として、その名に覚えがない。 ただ
「まさか……ゼロを倒したというのですか……?」 初めてだった。 アルベリオの貌から、余裕が音を立てて剥がれ落ちた。 ミリスは頬についた血を親指で拭いながら、にっこりと満面の笑みを浮かべる。「あんな奴、ミリスの敵じゃなかった」 ……笑顔で嘘を吐くな。 白かったドレスは赤く染まって、髪は煤だらけ。 両手なんて、小刻みに震えっぱなしじゃないか。 明らかに大丈夫ではない。けれど、「ハッ、強がりやがって」 その姿を見たとたん、ヴェルカが思わず吹き出した。「一体誰に似たんだか」 言いながら俺を一瞥した。 ――いや、多分アンタだと思うぞ。 口には出さず、目で言い返す。 それでも、ミリスの軽口が聞けただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった気がする。 俺とカグヤ、ヴェルカ、そしてミリス。ようやく全員揃ったんだ。 それだけで、不思議と負ける気がしなかった。「……なるほど。これで四天鑑定は全滅ですか」 アルベリオはゆっくりと息を吐き、頭を抱えた。「悔しいですが、認めましょう。ヴェルカ、あなたの弟子は相当優秀なようですね」「今更褒めたって、お世辞でも嬉しくねえぜ」「だとしても、四天鑑定を退けた事実は受け止めざるを得ない」 非常に悔しいですがね。アルベリオはそう結んで、ニヤリと口の端を吊り上げた。 確かに俺たちは四天鑑定を倒した。 それなのに、胸は少しも晴れなかった。 むしろ、嫌な予感が背筋をなぞる。「だからこそ残念で仕方が無い。優秀なキミたちが、こんな悪女に利用されていることが」「悪女……?」 ヴェルカが? 利用している?「バカを言うな! 何を証拠にそんなことを!」「証拠? それは既にキミたちも知っているはずでしょう?」 アルベリオは露骨に大きなため息を吐いて、憐れんだ目を向けてきた。 けれど、その目に射貫かれて、ヴェルカとのこれまでの出来事が脳裏を駆け巡った。 商会で出会った日。 ガザルム坑道で、本当に死にかけたこと。 理由も聞かされないまま、この競売会へ連れて来られたこと。 ……言われてみれば。 俺たちは一度も、ヴェルカの本当の目的を聞いていない。「…………」 信じたい。けれど、反論できない。
ガベルが競売台に突き刺さった瞬間、それまで怒号と歓声で揺れていた会場が、水を打ったように静まり返った。 何百という視線が、一斉に俺たちへ突き刺さる。 ……やっちまった。 頭より先に身体が動いた結果がこれだ。 頬が熱い。 今さら「人違いでした」なんて顔をして帰れたら、どれだけ楽だろう。 そんな情けない考えが頭を過る。 けれど、俺の背中にはミリスがいる。 傷だらけになりながら、それでも笑って俺たちを送り出してくれた少女がいる。 あの笑顔を見た後で、アルベリオに背中を向けるなんて、できるはずがなかった。「……残念です」 アルベリオは本当に残念そうに息を吐いた。 怒っているわけじゃない。 むしろ、「どうして分からないんですか」とでも言いたげな顔だった。 その穏やかさが、余計に腹立たしい。「膝を撃ち抜けば、十分だと思っていたのですがねえ」 白い手袋を嵌めた指が、静かに俺を指す。「痛みは優秀な教師です。一度教えれば、大抵の子供は二度と同じ失敗を繰り返さない」 まるで当たり前の真理でも説くような口調だった。 その声音には、人を撃った罪悪感なんて欠片もない。「ですが、どうやら私も買い被っていたようだ」 黄金色の瞳が、ゆっくりと細くなる。「ヴェルカの弟子が、ここまで聞き分けの悪い子だったとは」「……言ってくれるな」 膝の痛みより先に、胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。 思わず言い返しかけた、その時だった。「違う。それは教育なんかじゃない」 カグヤの声は震えていた。 それでも彼女は一歩も退かず、アルベリオを真っ直ぐ見据えて言い放った。「ただの脅しだ!」「結果が同じなら、過程はどうだっていいでしょう?」 アルベリオは眉一つ動かさない。 牧師のような穏やかさで、ゆっくりと言葉を重ねていく。「商売だって同じですよ。利益を得るためなら、手段は何だっていい」 その笑みが、僅かに深まる。「たとえ命を奪うことになったとしても、ね」「腐ってやがる……!」 思わず吐き捨てた俺を見ても、アルベリオは肩を竦めるだけだった。「だから、残念ですが愚かな君にはここで死んでいただきます」 白い手袋を|嵌
人間という生き物は、案外しぶとい。 それは賞賛ではなく、どちらかと言えば呆れに近い。 それがラグナの抱いた感想だった。 骨が折れようが、血が流れようが、肺が焼け付こうが、それでも生きることを諦めない。 否、諦める暇すらないだけなのかもしれない。 少なくとも今のミリスは、その典型だった。 ゼロとの戦いを終えた彼女は、自力で立っていることすら難しい状態だった。 にもかかわらず、それでも前へ進こうとしていた。 だがその度に身体が揺れ、今にも倒れそうになる。「無理しないで」 見兼ねたラグナが肩を貸す。 ミリスは少しだけ驚いた顔をした後、小さく笑った。「ラグナ、意外と優しい?」「私好みの可愛い子にだけはね」 呆れたように返しながらも、ラグナは肩を竦める。 優しい。 そんな言葉で片付けられるほど綺麗な理由ではない。 ただ少しだけ。 本当に少しだけ。 あの無表情な暗殺者が追い詰められていく様子が愉快だっただけである。 だから助けた。 それだけだ。 ――たぶん。 地下倉庫の崩れた通路を歩きながら、ミリスはぽつりと呟いた。「ねえ、ラグナ」「なあに?」「どうして助けてくれたの?」 その問いに、ラグナは一瞬だけ空を見上げる。 正確には天井だった。 けれど今は、空と呼んでも間違いではない気がした。「さあ、知ーらない。私は何もしてないわよ~?」 そう答えた後で、ラグナは少しだけ口元を緩めた。「でもそうね。きっと、勝利の女神様が微笑んでくれたんじゃない?」 だが数秒考え込み、「……いいえ」 と、自分で否定する。「今回ばかりは、微笑むどころか大爆笑してたみたいだけど」 その言葉に、ミリスは意味が分からないという顔をした。 勝負事というのは、公平であると同時に、もっとも不公平なものである。 しかし、だからこそ面白いとラグナは考える。 そして今回の勝負は、きっと女神様のお気に入りだったのだろうと、ミリスはそう結論付けた。 *** 一方その頃。 地下深くに築かれたオペラ座 《ファントム》では、既に夜天競売会の前哨戦が始まっていた。 幾重にも連なる赤い客席、天井を埋め尽くす豪奢なシャンデリア、舞台を







